『Dignity:尊厳』とは?世界大戦の先に人間が求めた共通土台
こんばんは!
野生の人文学家、チャーリー北川です。
今日のテーマはずばり『Dignity:尊厳』。
[名・形動]とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。(デジタル大辞泉より)
私はnTech(認識技術)というのを使って個人の自己認識や人間関係のコンサル、組織コンサルをやっているのですが、この技術の一番土台となるコンセプトが『尊厳』なのです。
一般常識として誰もが知っている単語ですが、日常生活ではまず使わないですよね。
Googleで検索してみてまずヒットするのは「尊厳死」とかです。
ただ、漠然としているし馴染みは無いんだけど、茶化すことのできない、何か強力にうったえてくるものがある。
誰にでも訪れるビックイベント「死」の相方を張ってるくらいですから、半端な概念ではありません。
ちょっと専門的な話になるんですが、法律の観点でこの『Dignity:尊厳』を見ていくとなかなか面白い整理になったので、ちょっと私自身の学習もためにも書いていきたいと思います~。
尊厳—Dignityの語源
語源はラテン語のディグニタス(dignitas)に遡り、古代ローマ人たちが重要な地位にある人に対して、尊敬および名誉を表すために使っていたようです。
更に遡ると、ギリシャ語のデコマイ(δεχομαι)「喜んで受け取る」という単語から来ているそうな。ある人の、あるいは、人々の、尊敬、敬愛、好意、賞賛などを喜んで受け取るということです。
ですから、当時『Dignity:尊厳』に普遍的な意義はなかったみたい。
そこからキリスト教が広まり、荘厳さとか畏れ多さとか、特別の畏敬と持って神と結び付けられるようになります。
そして、キリスト教が最盛期を迎えたヨーロッパ中世では、「神は人々から尊敬を受け尊厳を持っておられるが、神は人間をご自分に似せて作られたため、人間も神に似て尊厳を有する」と考えられてきた。
なので、もともと「人間の尊厳」という観念はキリスト神学の中で受け継がれてきたそうな。
それが非キリスト教社会にも受け入れられるものとなるには、カントの哲学が一役買います。
カントは、科学と道徳の両立を図って、宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、自由意志を持つ人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説きました。
カントによって、「人間の尊厳」は伝統的なキリスト教の教義から離れて、近代的な哲学によってユニバーサルに再定義されたのです。
同時期にフランス革命も起こっていますし、王権神授説から人権宣言へ、普遍的な人間の権利についての革命がおこった時代ですね。
悲惨な大戦の果てに:1948年世界人権宣言
明確な転換点となったのが1948年の世界人権宣言です。
第1条「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」
尊厳が、生物学的または社会的条件にかかわらず、誰もが持つ本質的な特性として明文化された瞬間ですね。
これには背景があります。
ナチス政権によって諸々の非道徳的な惨劇が行われた後、1948年の世界人権宣言の起草者たちが草案を作成していたとき、彼らは異なる政治的、哲学的、宗教的観点から出発していました。
ばらばらなバックグラウンドを持つ彼らが、それでも他人に暴力をふるうことは他者の人間性を否定するばかりではなく、自分自身の人間性をも否定することになる、ということを人類共通の良心にうったえるものとして、『人間の尊厳』というユニバーサルなコンセプトが必要だったのです。
最近ではバイオテクノロジーの分野でも、人権法一般と生物医学領域の人権の考え方の違いに関連を生み出すため、このコンセプトが広く利用されるようになってます。
テクノロジーの進化によって人間の倫理道徳が問われるケースは今後ますます増えていきますから、『尊厳』の重要性もそれに比例していくだろうな~というのが私の見解です。
日本発の新たなグローバル・スタンダード『Dignity2.0』
さて、ここまでは、既存の『Dignity:尊厳』の整理。
私がやりたいのは、ここを更に次元上昇させたコンセプトなのです!
世界はこんなにも膨大な情報知識と最先端のテクノロジーに溢れているのに、なぜいまだに争いや戦争が起こるんだろうか?
何か決定的に欠けているものがあるのだろうか?
幼い頃から国内外を転々とし、様々な人や土地の考え方に触れながら「何故人間は争うのか?」という問いを持ち続けてきた私は、大学で法律と国際政治学を専攻しました。
しかし、法律は争いの根本原因を解決してくれるものではなかったのです。
こんな大きな問い、自分なんかには不相応だと諦めてサラリーマンコースを進みましたが、25歳の時の大病をきっかけに人生の進み方を問い直します。
色々試しチャレンジした結果、出会ったのが、『Dignity2.0時代』を提唱し、それを実現させる日本の可能性を熱く語るNoh Jesu氏であり、0=∞=1という概念を基に彼が体系化した技術、nTechでした。
細かい技術の内容をここでお伝えすることはできませんが、nTechに出会ったとき、幼い頃から持ち続けていた問いに対する明確な答えを自ら出すことができた。
今は、この技術を日本から世界に広げるべく、色々チャレンジ中です。
でも、やればやるほど確信が来るし面白い笑
同時に、こうやって理想を進化させて技術を生み出し変化を創っていく人間の力に、興味を惹かれずにはいられません。
人文学家を名乗る理由も、そこにあるんだろうな~。
私は本質的には好奇心を探求する学者気質なんでしょう笑
長くなりましたが、今日はこの辺りで!